無意識のうちに思い込んでるものがある。
例えばだけど、「頑張る」「努力」に対して、わたしは知らないうちに「自分があまりやりたくないことへ取り組むこと」って意味合いを持つ言葉だと思っていた。
シンプルに考えたらそうじゃなくて、単に「力を注ぐこと」という意味でいいのに。
努力すること、頑張ることが嫌い、って思っていたけど、力を注ぐことが嫌いなわけじゃない。
はい、次。「友達」。
ただ一緒に遊びに行くとかの同じ時間を共有する人、のことは「知り合い」と呼ぶんだと思ってた。「友達」ってその時だけの関わりじゃなくてもっと相手と一歩踏み込んだ間柄のことを呼ぶものだと。
という定義付けだったから、他者と会話をしているとズレが生じた。
わたしの話す「知り合い」→「友達」、わたしの話す「友達」→「親友」、くらいな感覚で会話の内容が一致する。ということは理解した。
でもなんかさ、あんまりぽいぽい友達って呼びたくないのはなんだろね。たぶん、重いんだと思う。友達、を特別だと思ってる。特別なままにしておきたい。
最後にこれ。「優しい」。
なんだろね、「優しい」って。ちゃんと考えたことある?
どんなときに思う?気持ちを汲んでくれたときとか、気にかけてくれたときとか?そんな風に自分によくあれば結果優しいと呼んでる?じゃあ八方美人は優しい?その人の本心は?
逆に「優しい」と言われたとき。本当に自分は優しかった?優しさなんて持ってないと思う。何かしらの目的があって動いてるでしょう?
っていうようなことを考えるってことは、わたしの「優しい」の定義には下心のような目的を持ってちゃいけないみたいだ。純粋にってこと?
結局は受け取り手が「優しい」と感じたら相手側の行動の動機なんてなんだとしても「優しい」になる。っぽい。
えー、でもそれどうなのー。いや、そうなるんだけど、しっくりこない。
「優しいね」=「自分に都合がいいですね」ってなるってこと?そう思うともやっとしそう。優しいなんて言いたくない。
「やらない善よりやる偽善」って言葉にしっくりくるものがある。
全部偽善でいい。「優しい」なんてない。受け取り側が勝手に美化してるだけの話。って考えると落ち着く。
「優しいね」なんて押し付けたくないし押し付けられたくない。
って思うのは定義の問題か。
形だけのものに価値をあまり感じない。それよりその言葉の中身、本心が知りたい。